書くことが無さすぎる問題

書くことが無い。

思うことが無い。

ついったーらんどは日々目新しい事件や旧態依然の話題での盛り上がりをいつでも提供してくれるけれど、一方自分自身の生活の中でと云えば、驚くほどに何も言うことがない。

無い無い尽くしのナインティナイン

やべっちの顔を見るたびに寿司が食べたくなる。でもきっとコンビーフは健康に悪い。食べたことないから何も知らんけど。

ラノベやゲーム等々では短いスパンで幾多もの刺激的なイベントが巻き起こる。シリーズが終刊した時に作中の時系列を辿るとだいたい全て一年間の内に起きた事件だったというのはザラだ。飽きが来なさそうでたいへん羨ましい。

私もここらでちょっと何かイベントが欲しい。BBQとかUSJとか行きたい。でも私に待っている喫緊のイベントは東大病院での精密検査である。コレステロール万歳。血糖値万歳。

ブログと云えば聞こえはいいが、Twitterで呟いていることと何も変わりはない。むしろ文字数が多い分、毎字あたりの味付けは薄い。Twitterが豚骨ラーメンならこちらは塩味のフォーである。

毎日どうにもやる気がでない。ついったーらんどで週に2,3は見かける"鬱"なるものやも知れぬ。まぁたぶん最近、摂取する糖分の量を極端に控えているから気分がノらないだけかもしれないが。代わりにオレンジジュースを飲むと一気にテンションが上がる。酒よりもオレンジジュースを入れてる時の方が、ドロドロの血も巡りがよくなる。

ゲームの面白みとは法則性と閃きである。法則性に則って、4+6を10にすることはとても楽しい。そして数を重ねた頃に、4×6を24に出来たらもっと楽しい。4-6はとても悲しいが。人間の報酬系とは概ねそのように出来ている。 

糖分の摂取をやめたら痩せる。

そう信じて野菜生活を送っている。

極限まで自分を空腹に追い込めば野菜も存外美味しい。肉はもっと美味しいけれど。しかし、空腹というスパイスは案外危険で、バランスを間違えると血糖値が下がりすぎてぶっ倒れる。ので、なるべくQoLを高めて生きたい人はちゃんとバランスの良い食事をすること。これは1+1が2になるくらい当たり前のルールだ。いっそ2が1+1であるくらいに。

ところで、電車という物は非情である。なぜなら、4時の電車に乗ればJKに囲まれるのに、5時の電車に乗るとYシャツのサラリーマンにばかり周りを制圧されるからである。

JKは良い。JKとは何なのであろうか。JKを通して我々にアナムネーシスされるイデアとは果たして美か、善か。

それはさておき、JKがある種の宗教的記号を伴って立ち現れる存在であることに異存はない。JKは時に個人ではなく、JKという群体として我々の目に映る。それがJKという謎の生物の正体であり、JKという生物の正体を隠す謎でもあるのだ。

人生は予定が詰まりすぎている①

義務教育のレールを敷かれ、

高等教育の波に攫われ、

社会の荒野へと投げ出される。

 

人の生は常に、何かしら外の圧力に晒され続けている。それに上手く適応出来た者ほど、当たり前と呼ばれる幸福に近づくことができる。目には見えない強固な箱の中で、今日も人間たちは東奔西走し、訪れる明日に瞑目して過ごしていく。

 

現代社会において社会的身分を全て失った人間はほぼ存在しないと見ていいだろう。なぜなら、地球全土の多くを社会が覆ってしまい、さらに新しく生まれてくる人間のほとんども、純正の社会的生物として生のスタートを切るからだ。 

幼少期は親の子として、少年期は学生として、青年期から社会人として。社会の大小の差はあれど人は他人との関わり合いの中で生活しており、それは空間的な広がりだけでなく時間的な広がりに対しても影響が波及している。そして社会の意義が最も発揮される瞬間は、四次元的な動きに対する時である。 

つまり言うなれば、社会とは道を指すのだ。

逆に、道は社会を指している。

これは都市間の移動という空間的な視座だけでなく、その場所を過去から現在に渡って多くの人間(或いはその他の生物)が通過しているということを示す足跡ひいては歴史の側面を持ち、時間的な繋がりも存在していることは理解に難くないと思う。またこの時間的な繋がりこそ、慢性的な閉塞感を招く原因となるものであり、人を常に何かの上に立たせ続ける機構として猛威を振るってきた。

道がある限り、人は逃れるという事から逃れられない。これは強烈な負荷を精神にかけ続ける。不可視に盲目である人間は何も感じないままに歩いていけるかもしれないが、そうでない人間は違う。見えないという事実が視界を占領して目を逸らすこともできず、道と野原の境界面に圧迫されながら棒のようになった足の動くのを眺める羽目になる。

レールの敷かれた人生とはよく言ったもので、それはまさしく電車の車両内で座席に座り、外を勢いよく流れていく景色に想いを馳せるばかりが精々なのだ。たまに車両の中を歩いて5号車から6号車、或いは4号車に移動をする者もいるが、結局それは他の乗客との差分に過ぎない。

電車は狭い。息が詰まる。身動きがとれない。

こんな束縛を抱えたまま、人は休まなくどこかへと運ばれていくのである。

 

 

 

 

 

10年後のビジョンはありますか?

10年後がどうなっているのかを予測するのは難しい。というか無理だ。企業の採用選考で聞かれることもあるだろう。仮に我が社に入ったとして、あなたは10年後どうなっているのか、どうなっていようと思うのか、どこまで考えていますか?と。

この問いに対して正確な未来予想を立てようとするのは不可能である。自分は課長になっていてー、二児の子を持つ暖かい家庭を築いてーとあやふやな、過程をすっ飛ばして最終的な結果のみを願望として語ることは、夢のある人間なら大抵可能かもしれないが、ビジョンとはそういうものではない。もっと見通して、見透かしていなくてはならない。そしてこれは、就活生や木っ端社員に対してだけでなく、企業経営そのものにも同じ問い掛けを行うことができる。

再度言うが、この10年後のビジョンの問いに対して、今よりもっと企業の収益規模を大きくしてー、社員数も二倍三倍に増やしてーと目標だけを答えるのは無能のすることである。未来の話をする時に重要なのは結果ではない。過程の方である。

M&Aで業界内の下請けの中小企業を吸収して自社内の流通の力を底上げしていくとか、他業界の企業と提携してマーケティングの開拓をするとか、具体的な行動方法を示せてこそのビジョンの意味であり、"何になるか"ではなく"何をするか"を考えなくてはならないのだ。

より分かりやすいように考えるとすれば、小学6年生に「10年後、自分はどんなふうになっているかを想像してみて?」と聞いてみるような状況をイメージしてもらえるといいだろう。

この時、お医者さんになっていたいとか大学院に進みたいとかクラスの○○ちゃんと就職を機に同棲を始めたいなどということを答えるのは、将来の夢の範疇でしかない。それは実現可能かどうかを問うているのではない。実現するための方法、過程のイメージを持っているかどうかの違いだ。

お医者さんになるために医大に通い、医大に通うためにある程度の高校に入る必要があり、またある程度の高校に入るために中学ではそこそこの学力を手にしていなければならない。こんな具合に考えられていれば上々だろう。さらに中学で勉学に励むために現在小学生で習ったことがの総復習をしているとか言われたら褒めてあげたくなる。まぁ早くても24歳でしか医師国家試験をパスできないらしいけど。

何になるかよりも、何をしたいかが大切だ。そして、何をしたいかよりも何をしているかが重要となってくる。

故に、10年後のビジョンはありますかと聞かれて答えるのに最悪、10年後がどうなっているかなんて分からないから10年後に何したいかはその時の自分次第と言うのは悪いことではない。ただしそれをビジョンとして成立させるためには、10年後がどんな世界になっていてどんな目標を立てて生きているかはわからないけど、どんな状況になろうとも可能な限り対応できるような能力を身につけていきたい、というフォローの考えが必要条件となる。目標を持たないとはあらゆることが目標となりうる、ある意味で最も重い目標でもある。今は将来の夢とかは無いけれど、いつか夢が出来た時にそれを実現できるよう、それまでの怠惰が理由で後悔することのないよう、とりあえず今から勉強や運動などの努力をしていくつもり……の精神だ。

結局のところ、10年後のビジョンとは真に10年後のことではなく、10年後に繋ぐための"今"を考えさせる質問なのだ。故に、この問いを投げかけられた時には、10年後にこうなっていたいからこうしていくつもりだし今はこんなことをしている、というような形の回答を返したいし、返して欲しいものである。

 

 

それは15年後のとある春の日のことだった。

幼稚園の卒園アルバムを開けば、将来の夢を書く欄には"けーきやさん"と書いてある。

今となっては一つ前の元号の、それも結構昔の思い出ではあるが、幼稚園生だった頃の記憶は意外と仔細に残っていた。

えびす様のような穏やかな顔をしていた園長先生。毎朝泣きながらやってくる俺をよく慰めてくれたマサコ先生。

流行りの芸人の真似がやけに上手いヒロキくん。ゴジラの話を延々と繰り返し結局名前も言わずに去っていった女の子。

母のお弁当にデザートとしてたまに付いてきた、湿気ってふにゃふにゃのホットケーキ。階段の踊り場の窓から眺めた雲の空を行く速さ。

そして、隣の席の子が書いているのを見て、真似て自分も書いてみた"けーきやさん"という将来の夢。

今の自分は、あの日なんとなく想像した「将来」という時間に立っている。

別に本気でケーキ屋さんになるつもりなんてほとほと無かったし、特に思い入れもない。後で卒園アルバムを見返した時に、クラスの可愛い女の子も将来の夢欄に"ケーキやさん"と書いていて少し嬉しかったくらいだ。同時にその女の子がケーキをカタカナで書いていた事にも、憧れの念のようなものを抱いた。

正直、自分が将来どんな風になっているのかは今まで全く想像できなかったし、それは今でも全然変わっていない。

きっと就活生になったら色々業界研究とかせねばならんし、志望職種とか決めなあかんから、来るべき時が来たら如何にええ加減に生きてきた己でも、流石に何かやりたい事を一つくらい見つけて、目標に向けて多少は日々努力しとるやろ!

だがしかし。

生来の性根は如何ともしがたく、ええ加減に生きてきた己は、まさしくこれ以上なくええ加減にナァナァな形で就活の終了を迎えることになる。

実働五日、一週間以下。

それで内定が出てしまった。

うわー、先に就活始めてる皆、お祈りメール送られてめっちゃ凹んでるな〜。まぁ俺はテキトーな男やから、お祈りメールを送られてもメンタル病んだりせぇへんけどな!

お祈りしてもらえなかった。

祈れ、俺の益々のご活躍を。

お体に気をつけてお過ごし下さいと、俺の先々の健康を気遣え。

まぁ気遣われたところで俺の健康はもうかなりボロボロの状態だがな。 

キミ、普段はお酒とか飲むの?

こちとら絶賛禁酒中♪

ドクターストップ受けとんじゃい!

それはさておき。

俺の就活は終わってしまった。

始まらないままに、終わってしまった。

夢も希望も関係ない。

そこにあるのは無味乾燥な結果だけ。

結局オマエは最後の最後まで、将来の夢を得ることは叶わなかったなァ!と、神か何かに嘲笑われている気分だ。

しかし、これが似合いの結末なのだろう。

幸いにも、人事部のお姉さんは可愛い。なんなら説明会に行った企業の中でも一番可愛いお姉さんがいる会社だ。推せる。それだけで会社を推せる。会社選びの動機なんて、それくらいで充分なのだ。

本当は敬愛すべきダメダメな諸先輩方を見習って、留年就職浪人卒業後公務員試験挑戦十二月内定等々を覚悟して、二年くらいは就活を続ける腹積もりでそのための布石も仕込んではいたが、五日で内定を出されちゃあ仕方がない。四年生は遊び倒そう。

幼稚園の頃の俺には申し訳ない気もするが、でも隣の席の子の将来の夢を真似て書くような奴に責められる謂れもない。

 

諦めてふわふわ生きろ。 

 

板チョコ ☆ thirteen !!

人は血糖値が下がることで空腹を感じるらしい。

逆に血糖値が下がりさえしなければ、人は空腹をあまり感じなくなるということではないか。

ダイエットの大敵、ついつい中途半端な時間に小腹が空いてしまう現象はこれで打ち倒すことができる。

具体的にどんなものをどんな量で摂取すれば血糖値を低くせずに維持できるのかはわからない。だが一時間に一枚のペースで板チョコを食べれば、きっとたぶん問題はないだろう。

強いて一つ、問題があるとすればそれは金銭的コストである。

板チョコは普段買わないからあんまり値段とかは知らないけど、だいたい200円くらいするに違いない。安くても100円なイメージがある。一日8時間は寝るとして、起きてる時間は16時間。この内板チョコ摂取の3回分はそれぞれ朝食、昼食、夕食で代用できるとしても、一日に13枚の板チョコを食べなければいけない計算となる。200×13=2600。人間一人の一日分の食費として、2600円は非常に高い。月30日換算にすると78000円にもなってしまう。

毎月8万円弱が板チョコ費に消えてしまうと考えると、少し悪夢である。なにぶん都内足立区の家賃相場よりも値段が張っている。しかし、一日に板チョコを食べたい気持ちを13回我慢すれば足立区に住まいが手に入るのか。なんかお得な気分だ。まぁ一日に板チョコ13枚を食べるのと足立区に一室借りるのとどちらが本当に幸せなのかは個人の思想によるが。

血糖値のご機嫌うかがいをするには大金が要る。板チョコで食生活革命を起こそうという人には、ぜひ月8万円以上稼げる仕事を見つけて欲しい。ただあんまり稼ぎすぎると今度は税金が課せられるらしいので、それだけは注意だ。

そしてそれさえクリアしてしまえば、めくるめく板チョコLifeが待っている。

さぁキミも、レッツ板チョコ!