人生は予定が詰まりすぎている①

義務教育のレールを敷かれ、

高等教育の波に攫われ、

社会の荒野へと投げ出される。

 

人の生は常に、何かしら外の圧力に晒され続けている。それに上手く適応出来た者ほど、当たり前と呼ばれる幸福に近づくことができる。目には見えない強固な箱の中で、今日も人間たちは東奔西走し、訪れる明日に瞑目して過ごしていく。

 

現代社会において社会的身分を全て失った人間はほぼ存在しないと見ていいだろう。なぜなら、地球全土の多くを社会が覆ってしまい、さらに新しく生まれてくる人間のほとんども、純正の社会的生物として生のスタートを切るからだ。 

幼少期は親の子として、少年期は学生として、青年期から社会人として。社会の大小の差はあれど人は他人との関わり合いの中で生活しており、それは空間的な広がりだけでなく時間的な広がりに対しても影響が波及している。そして社会の意義が最も発揮される瞬間は、四次元的な動きに対する時である。 

つまり言うなれば、社会とは道を指すのだ。

逆に、道は社会を指している。

これは都市間の移動という空間的な視座だけでなく、その場所を過去から現在に渡って多くの人間(或いはその他の生物)が通過しているということを示す足跡ひいては歴史の側面を持ち、時間的な繋がりも存在していることは理解に難くないと思う。またこの時間的な繋がりこそ、慢性的な閉塞感を招く原因となるものであり、人を常に何かの上に立たせ続ける機構として猛威を振るってきた。

道がある限り、人は逃れるという事から逃れられない。これは強烈な負荷を精神にかけ続ける。不可視に盲目である人間は何も感じないままに歩いていけるかもしれないが、そうでない人間は違う。見えないという事実が視界を占領して目を逸らすこともできず、道と野原の境界面に圧迫されながら棒のようになった足の動くのを眺める羽目になる。

レールの敷かれた人生とはよく言ったもので、それはまさしく電車の車両内で座席に座り、外を勢いよく流れていく景色に想いを馳せるばかりが精々なのだ。たまに車両の中を歩いて5号車から6号車、或いは4号車に移動をする者もいるが、結局それは他の乗客との差分に過ぎない。

電車は狭い。息が詰まる。身動きがとれない。

こんな束縛を抱えたまま、人は休まなくどこかへと運ばれていくのである。